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「教える」を考える

方法論や呼称は別にして、人に何かを教える又は、何かを教えてもらう(学ぶ)機会というものは年齢や環境に関わらず日々行われていることである。しかしながら教育という行為は日常生活との関わりが深く、様々なノウハウがあるにも関わらず、なかなか思い通りにいかない非常に悩ましい問題である。人に何かを教えるということについて明確な解を持っている方が少ないのではないだろうか。

学ぶ機会というものは学生であれば学校での授業や部活動などのオフィシャルなものはもちろん、家庭では親からの教育であったり、兄弟とのコミュニケーションから得るものもあるだろう。

社会人であれば企業内での上司から部下への指導や先輩後輩の関係、また、同僚との切磋琢磨など、多くのケースが考えられる。人に何かを教える又は、人から何かを学ぶ機会というものは本人の意識次第であらゆる状況が考えられる。

つまり人と接するあらゆる機会に学習という概念が発生し、学習に学ぶ者を育成する意図があるものを「教育」と考えることができる。

「教育」という行為の実態は上司による部下への教育や、先生が生徒に行う授業、親から子への教育など、ある組織階層における上位の者から下位の者への知識や技術などを身につけさせる行為を指すことが日常的であり、筆者はこの状況に発生する「上の者が下の者に教えなければならない」という、教える側が持つある種の思い込みによって多くの悩みが発生しているのではないかと考えている。

企業の教育場面に焦点を当ててみると「部下が思うように育たない」や「新人が何を考えているかわからない」といった悩みは多くの企業で聞かれることである。

教育現場での悩みの多くは
・ 教える側の明文化されないあるべき姿をおしつけようとしている
・ 技術や知識などHow toの指導に終止してしまう
ことによって、教えられる側の人間性や意図とは無関係の教育方法をとってしてしまうことが原因の一つだと考えられる。教える側の意識や行動でこの悩みの解決が図れるのではないか。

「今企業にとって必要な教育は、新人や若手社員への技術指導よりも、管理職層自身が学ぶことである」筆者が企業での教育を考えるとき、ある組織論の研究者が言っていたこの言葉を思い出す。

経験的に上司など教える側の「こうなって欲しい」は、部下にとってのあるべき姿や理想像ではない場合が多いようである。「背中を見て覚えろ」や「嫌ならやめろ」といった、職人気質の日本人が得意とする、マーケティングで言うところのプロダクトアウトの発想が教育の場ではまだまだ多くみられるように思う。

経験的に見てきた「強い組織」というものはどのようなものであったかと振り返ってみると、技術や知識の前にその組織での考え方や価値観を徹底して身に付けさせていた。価値観を身に付ける方法も座学や言って聞かせるものだけではなく、苦労する体験を意図的に与えたりするようなものである。こういった教育によってその組織内での目線合わせをした上で、技術や知識を身につけていくのである。

物事がうまく運ばないときはその責任を相手のせいにしてしまいがちであるが、どちらか一方に明らかな過失があるケースはむしろ少ないだろう。これらを踏まえると、教育の内容以前の心構えとして、教える側は部下、生徒、子供など教えられる側からも教え方を学んでいると、どこかに謙虚な気持ちを持つことが双方の学習効果を高めることにつながるのではないだろうか。

執筆者 立原 圭

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